山崎 健一 / Kenichi Yamazaki
2006年~2012年愛光病院で精神科作業療法士として勤務。2015年1月GrASP株式会社起業、同年6月横浜市で唯一の若年性認知症デイサービス「トポス和果」のサービスを開所。若年性認知症の人の心身の状態に合わせた支援を行いながら、どのような容態になっても変化が少ない環境で連続性のあるサービスが受けられるよう、介護予防認知症対応型通所介護(認知症初期)、認知症対応型通所介護(認知症 中期・後期)を合わせたContinuity サービスを 2020 年 2 月から開設。メンバー・ご家族とともにより良い「イマ」を創るため試行錯誤の日々を送っている。
―私という個から、絆で結ばれたパーティーに―
『横浜市の若年性認知症の人の活動拠点は、当事者・ご家族・地域のみなさまとともに、弊社が担ってゆく』という気概を持ち、人生をかけて私たちは挑戦しています。
今でこそ声高らかこんなふうに言っていますが、まさか「若年性認知症の人のケア支援」を生業にするとは思ってもみませんでした。といいますのも、私のキャリアは、精神科病院の作業療法士として勤務することからスタートし、アクティビティ・作業活動の不得手な作業療法士として職務を続けました。ただ、ヒトの心のなかへ土足で入りこんでしまうような独特な感性を持っていたからこそ(私の生い立ちに潜んでいるこの話はまたの機会に…)、病院勤務で満足するのではなく、「起業」という道を選択し、地域社会で勝負することを自らのFieldに定めることになったのです。
こうして個で歩みだしましたが、今では「若年性認知症の人・ご家族が愉快で豊かな毎日を過ごすために」を合言葉に集まった社員と共に、気づけば、「パーティー」(一団)となっていました。
―きっかけ、ある若年性認知症の人との出会いが原点―
ではなぜ、「若年性認知症の人のケア支援」を生業にしたのかと言いますと、病院勤務の頃、私が訪問看護のリハビリで若年性認知症の当事者の方のリハビリを行う機会があったからです。
その方とは、ウォーキングやスポーツ、電車移動を円滑に行うためのシミュレーション等のリハビリを行いました。今でも昨日のことのように鮮明に覚えています。
10年前、若年性認知症のケアを専門的に行っている事業所は神奈川県に一つしかありませんでした。当事者の方、ご家族の方から専門のサービス事業所を創設してほしいと熱心に声を掛けていただくことで、いつしか「若年性認知症の人の活動拠点をつくるべく、デイサービスを立ち上げる」と根拠のない自信とともに決意し、動きはじめていました。そんなきっかけを作ってくださったこの方と奥様には感謝してもしきれません。本当にありがとうございます。
―語りつくせぬ想いをバトンに繋いで― ※2022年10月現在
気がつけば、青葉区市ヶ尾町で4年3か月、青葉区鉄町に移転して3年1カ月、約7年のを積み重ねてきました。笑いあり、涙あり、時には格闘もあり、ジェットコースターのような毎日でした。この積み重ねが約2,200日に達した現在、106名の若年性認知症の人(若年性認知症だった人)とご家族との偶然の出会いがありました。約2,200日を通してケア支援を学ばせていただいた経験が、私たちにとってのエビデンス(根拠)となり、当事者の特徴を傾向として掴むことのできる経験値が上がってきました。
また、弊社の提供できるサービスの形が、社会参加から社会有志(ボランティア活動)へと進化し、最近では社会貢献にまで活躍の機会が拡大しました。これまで皆さまとともに繋いできたバトンには、喜怒哀楽という記憶とともにたくさんの経験が染み込んでいます。私たちは、このつながりが途切れることがないよう、次の若年性認知症の人とご家族へ着実にバトンを渡し、「若年性認知症」と共生しながら愉快で豊かな人生を歩んでいただきたいと思っています。
―決意―
弊社は『若年性認知症の人が活躍するFieldを共創する求道者集団』として成長し続けます。その先に若年性認知症の人とご家族が、日々の暮らしの中に今までに経験しなかった意味を見出し、新たな人生の価値と出逢う、時に人生を奏でることができる、また時に人生を走るときには、いつでも私たちは伴ソウ(奏・走)者であり続けたいと思っています。
それを実現するべく、横浜市内に日中活動の拠点となる若年性認知症の人のデイサービス事業所をさらに増やし、また、仲間とともに安心して過ごせる終の棲家となる若年性認知症の人のグループホームを立ち上げていくことを構想しています。吉報を届けられること、楽しみにお待ちください。